飛行機は離陸する直前に一気に加速して体に負荷がかかる。体がシートに押し付けられるくらいのやや無理矢理な離陸。それを楽しんでいる、と老婦人は言った。「そして機体が宙に浮いたことを窓からの眺めで確認するのが好きなの。あっという間に上空まであがっていく、その一連の体験に満足するわ。でも、そのあとはすぐに眠るけれど。上空で安定飛行に入ると、もう退屈な時間でしかないから」
「旅行が趣味と言うべきかしら。それくらいしかすることがないのだけど」と老婦人は言った。「かといってそんなに珍しいところに出かけるわけではありません。わりと有名な都市や観光地です。気に入って何度か訪れた場所もありますし、一度だけのところもあります。アジア、ヨーロッパ、北米南米、そのあたり。治安の心配がなくて、観光しやすい場所ばかりね。こだわりを持っているわけではないから、旅行で出かけるけれど、ホテルで静かに過ごしていることも多いですよ。本を読んだり、プールで泳いだり。
あと、なぜかいつも以上に歯を磨くの。でも歯のエナメル質のこととかを考えたら磨きすぎるのもよくないと言われたことがあって、あんまり力を入れずにそっと磨くの。ブラシを歯に軽くのせるように。でも徹底的に磨きたいから時間がかかってしまう。それと歯ぐきのマッサージも兼ねてる。そのためだけに短くても１時間くらいホテルのバスルームで過ごしたりするわ。それを朝と午後、それから寝る前も。わざわざ海外まで出かけて、何してるのかしらね。ちょっとヘンよね」
なぜそうするんでしょうか、と私は質問した。
「そうね。どうしてかしら」と老婦人は言った。「これは飛躍した話ですけれど、そうね、一応、主人が他界して、私には家族もいないから、なるべく後片付けをしてからこの世を去るつもりです。その意識が関係しているのかもしれませんね。どこにも磨き残しがないほうがいいんじゃないかって。旅行に出るとただの滞在者になるわけでしょ。それでこの世に一時的に滞在している存在だと知らず知らず思うのかも。汚したまま去ったらよくない、きれいにしてから去っていく方がいいって」 老婦人が笑ったので、私も愛想笑をした。彼女は週明けから南欧に旅行にでかけると教えてくれた。
数日後、現地で利用した小型機の墜落事故により老婦人が死亡したことを私は知人から聞いた。
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